mir-aclの物置小屋

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善人 道徳モラル規範 心の辛さと地獄

社会規範とは何ですか?

社会や集団のなかで,ある事項に関して成員たちに期待されている意見,態度,行動の型のこと。 その社会に広がる価値体系が成員に内在化されたもので,成員の遵守行為によって顕在化する。

 

日々の中で目にする「こうあるべき」マナーとか、マナーの周知は、今このブログで話題にしている「善人」とは少し違う。

なんかもやっとして、形にしたいんだけど、うまく形にならない。

 

10年くらい前、「占い、霊能」なんか全然信じてないころ?3000円位?で見てくれる、という台湾の占い師にみてもらった。

 

その人に、「あまり酷いことを考えたらダメだよ」、って念を押されて、

えーなんか、ばれてる?って。

 

昔よりはましでも、かなり嫌な悪夢を、自分の家のことで、定期的にうなされて、

常時恨んで憎くて辛くて、辛くて。恨みと憎しみに囚われてたから、(最近少し落ち着いた?)それはもう、凄まじい念だったにちがいない。

 

人の心の中までは、モラルで裁けないでしょう。この間亡くなってニュースになった方の、誹謗中傷に、誹謗中傷(アンチが死ね、とか、全員死刑、牢屋へとか)し返すのも、

両方ともが凄まじい怨念だよね、

 

そしてなぜそうなったのかが、すべてにあって。抜けたいのに抜けられない、不幸の連鎖。救われない。

 

でも、やっぱり、私にはわからなくて、自分の心が死にそうに辛いのに、自分を押し殺してでも、悪いことを念じたらダメなのかなー。

それは悪行にカウントされるの? っていうか。人を呪わば穴二つ、上等だよね、もういいよ、っていう自棄の地獄のなかにいるわけで。体も気持ちも限界のやつ。

 

 

道徳、規範も流動的なもの。結局そのまま受け入れないなら自分で判断してかなきゃならない。

自分で決めていいんだよね。というか、誰であっても決めつけて命令することはできない。自分で決めてそれに沿って生きて、考えながらやるしかない。

 

ふと見たら

 

正解はない。

大切なのは、

自分で選ぶことだ。

 

っていうのが目にはいって。

 

 

ネットで調べたら下記ヒット。

人生の醍醐味は正解を自分で決めること。選択力をつける10のメッセージ

 

うまれた国のその時代の常識でも、信じるかどうか、

行動するかどうかは、その人次第。

 

Speak Your Truth.

その大切さと

(不幸の)脚色をしないこと

 

こんな自棄の地獄を抱えて、善人に、幸せになれるのだろうか?

 

うーん、順序逆で考えてたんだよね、もう少しでも幸せとか希望あるなら、悪いことなんか念じないし(それはそうだ)もっといい行いもして善人になれるはずって。それも絶対真理だし、今も思ってる。

 

でも、

まず偽善でもいいから善をなせ、役者のように「演じ」るのでもいいから聖人君子の如くあれ。って何度もその言葉に立ち返る。

 

それでもいきなり変わるわけがない地獄のなかで、傷つけられた、やられた、痛い、から、心のなかは破壊衝動で溢れてしまう。

 

心の中まで神様が見てるなら、私はもうだめだよね、ってほんと救いがなく落ちていく。

 

おなじように落ちている人に引っ張られる。

 

今日も海へ。太陽で心身焼ききってきらめく海面見ながら、頭を空っぽにする。

今できることをする。世界の美しさを見て、目から入るネガティブな情報をシャットダウンして、信じられるものを集めよう。

世界がどうなっていようがニュースで心が壊れるなら見なくていい。

少しだけ人に優しくあれるような余裕を、心に持てたらいい。

寄付をしよう(決めたから)

自分のほしいものを諦めない。

手に入れるために行動しよう。